誕生から大学まで
普通のサラリーマン家庭の長女として兵庫県に生まれました。
二歳上に兄がひとりいます。
生まれて4か月で父の転勤で東京に転居しました。
幼稚園時代は小柄だけど活発で元気な子供でした。
マラソン大会で優勝経験も。(幼稚園のなので単なる負けず嫌い)
小学校にあがる直前に兵庫県に戻りました。
小学生時代は勉強は得意でした。
運動はあまり好きではなくて、球技大会をずる休みしたことも。
塾通いのかたわら好きだったのは、刑事ドラマと時代劇、あとは手芸屋さん。
当時流行していた大高輝美さんのフェルトマスコットはたくさん作りました。
ビーズに銅線を通して虫を作ったりするのにもはまっていました。
編み物も母に教わりながら小学校の時にはマフラーとかいろいろ編んでいました。
手作りが好きになったのは母の影響かもしれません。
幼稚園時代は母が編み機で編んでくれたニットのセットアップをよく着ていました。
当時専業主婦だった母は、パンを焼いたりお菓子を手作りしたり。
甘いものは苦手で生クリームもカスタードクリームも当時は食べられなかったけど、母が作ってくれるババロアだけは不思議と食べられました。
プリンもゼリーも苦手で給食では苦労していたのに。
小学校にあがる時には給食袋にはスヌーピー、鍵盤ハーモニカ入れには音符の刺繍をしてくれました。
美人で器用な母は自慢でした。
(あまりに似ていないので、あのひと誰?って同級生に聞かれたこともありましたけど)
小学校高学年になるころには母も仕事をはじめていたので、料理以外の手作りはしなくなっていましたが、その一方で私はいろんなものを作り続けていて、袋がどんどん増えると母に笑われていました。
中学は家から1時間以上かかるところに通っていたので、手芸屋さんにいく頻度は少し少なくなりました。
でも、高校生になると制服がなかったこともあって、当時買ってもらったミシンで自分の服を縫うようになりました。学校帰りにとなりの駅にあった大きな手芸屋さんでセールの毛糸をかってカーディガンとかの大物も編むように。
ミシンはコンピューターミシンで当時高校生が使うにしては高価なものでした。
これも母が洋裁もする人だったのでどうせならいいものをと買ってくれたのです。
高校まではそんな風にいろんな手作りを楽しんでいたのですが、東京の大学に進学してミシンも実家に置いたまま。針もまったく持つことはなくなりました。
世はバブル。毎日楽しくて楽しくて一人で家で何かを作りたいなんて思わなくなっていました。
大学卒業から結婚・子育て
大学を卒業して、帰阪して銀行に就職しました。銀行では、上司にも恵まれて楽しく過ごしていました。でも仕事は忙しくて、やはり何か作る時間はありませんでした。
当時付き合っていた夫にカーディガンを編んだのが唯一の手作りかもしれません。
結婚して、第一子を授かり夫にも小さい間は子供のそばにいてほしいといわれたこともあり、銀行をやめることにしました。今では考えられないかもしれませんが、寿退社や出産で退社は当時あまりめずらしいことではありませんでした。
でも銀行をやめた一番の理由は、銀行が合併したばかりで企業文化が変わってしまったこと、産休明けに同じ部署があるかもわからないこと、どこに行かされてどんな仕事をすることになるかまったくわからなかったことが一番です。
比較的行風が似ているといわれていた両行でしたが、私がいたところは男性のほとんどが海外勤務経験があり、カラーシャツもOKで呼びかけも名前にさんづけで「次長」「課長」などと役職でよぶこともない外資系のようなところでした。しかし合併したところはお堅いお役所のような行風。白いワイシャツのみで、もちろん役職呼び。わが行が西暦を採用しているのに元号使用とどこまでも文化が違いました。半ば吸収されたようなものでしたので居心地が悪くなりそうだと思ったのです。
子供が生まれて育児が始まりましたが、自宅でお店をしている姑と同居だったのでワンオペでもなくわりと時間はありました。
そこで、なんとなく勉強を始めて、宅建主任試験を受けて合格しました。
いつか生かせるかなと思いましたが、二人目も生まれて再就職しようという気にもならず専業主婦として過ごしていました。
スモッキング刺繍との出会い
子供が幼稚園にあがると、地域柄もあるのかもしれませんがまわりも専業主婦のママが多くて子供服や雑貨などを作るのが流行っていました。
私もCHECK&STRIPEやRickRackさんに通って娘たちのお洋服を作ったりしていました。
そんなある日、本屋さんで運命的な出会いをします。
河村裕子さんの「スモッキングの少女服」です。表紙にはかわいらしい二人の女の子が白襟に胸元にスモッキングが施されたワンピースを着て立っています。
その表紙を見たとき衝撃が走りました。
「この服を娘に着せたい!」
すぐにその本を買って、熟読しました。
この本は、横に伸ばした図案を作って布にうつしスモッキングしながら縫い縮めていく方法が載っています。
ただ無地にスモッキング゙をするのはとても手間がかかる気がしたので、娘が好きだった黄色のギンガムチェックを買ってきて、早速製作にとりかかりました。
できあがった白襟のワンピースはとてもかわいらしくて、すっかり魅力にはまってしまいました。
それからすぐにスモッキングを教えてくれる先生を探しました。
でも、当時関西にスモッキングを教えてくれる先生はみつかりませんでした。
それでもスモッキングをしたい!という思いはなくならず、AtoZを買ったり、スモッキングについてのブログを読み漁ったりしました。
そんな中で師匠であるスモッキングコルベイユの堅田先生のブログに出会いました。
先生がブログの中で紹介してくださっている本を自分も購入したり、メッセージを送ったり。
そして、「ピクチャースモッキング」の存在を知りました。ピクチャースモッキングをするには無地の布に先にひだ寄せしたい。そう思った私はプリーターを買うことにしました。
当時は朝鶴さんで買うことができました。値段も今の半分くらいでした。
それを買って、自己流で刺繍する日々。
わからないことも多くてひたすら本を読んで、ブログを読んで。
今みたいにいろんな先生がYouTubeに動画をあげてくださってもいなかったのでとても苦労しました。
娘たちもすっかり大きくなって、スモッキングの服はもう着ない年になっていましたが、私のスモッキング熱は覚めることはありませんでした。
自分の手作りブログを続けながら、スモッキングデザインの作家の方と知り合ったり、堅田先生と交流をさせていただいたりして、スモッキングと向き合う日々は続きました。
スモッキング刺繍のレッスン
そんな中、堅田先生が奈良に月に一度レッスンをしに来られるというニュースが飛び込んできました。
スモッキングを始めて8年が経っていました。
もううれしくてうれしくて。
早速参加しますとご連絡しました。
堅田先生のレッスンはそれから毎月かかさず通いました。
兵庫から奈良は少し遠いのですが、幸い数年前に阪神電車と近鉄電車の直通運転が始まっていて、1時間ほどで行くことができたのもラッキーでした。
レッスンに通い始めると、基本的なことがわかっていなかったことに気づくことも多かったです。刺繍糸の取り扱いや玉結びの仕方ひとつとってもできていませんでした。
プリーターの使い方やステッチについても目からうろこのことばかり。
自己流で遠回りしてきたことがもったいなく思えた瞬間でした。
そして、長い間患っていた姑が亡くなったこともあって堅田先生のレッスンに通い始めて1年がたとうとしていた頃に一から刺繍を学ぼうとヴォーグ学園に通うことにしました。
日本手芸普及協会の刺しゅうトータルコースです。
ずっと自己流だったので、基礎が何もわかっていないことが不安でした。
このコースではいろんな刺繍について学びます。先生も仲間も楽しい人ばかりで、私の刺繍熱は一層高まって行きました。
娘たちも大きくなって義母の介護もなくなったので私も友達のサロンで事務のお手伝いをするようになりました。
そんなある日、堅田先生から文化教室で講師をしてみないかとお誘いを受けました。
大阪で講師の依頼をされたものの大阪にずっと行くのは難しいから一緒にやってみないかといっていただいたのです。
以前の私ならお断りしていたかもしれません。
私は、小学生というかなり早い段階でとても優秀な友人たちに出会っていたので、自分に自信がまったくない人間だったのです。
今思えば、その友人たちは上位1パーセントに入るようなすごい人たちだったので、私が自信をなくすことはなかったのかもしれませんが、常に上を見て自分を卑下していたので、人に何かを教えるなんてしていいのかと常に思っていました。
(子供に勉強を教えるのは別ですけど。)
でも、その時の私は刺繍の資格コースで基礎からきっちり学んでいるという自信が少し芽生えていて、先生のお誘いを受けることができました。
カルチャーで教え始めたころはカリキュラムもできあがっておらず、生徒さんにはご迷惑をおかけしてしまったところもあったと思います。
でもなんとか続けてこられて、堅田先生にも生徒さんにも感謝しかありません。
教室はNHKカルチャー梅田教室から、西宮ガーデンズ教室、近鉄文化サロンあべの教室と増えて行きました。
雑貨屋さんをお借りして、自分の教室をスタートすることもできました。
しかし、そんな中でのコロナ。
カルチャーがスタートして数年たったこともあり、新規の生徒さんの数も落ち着いてきたことと、やはり家からはなれたところに通うことも気が引けて、西宮ガーデンズ教室以外の教室はいったんお休みすることにしました。
コロナ禍も二年目になり、次女も東京の大学に進学したこともあって、自宅でひっそりと教室をスタートすることにしました。
教室を始めると、「近くにあってよかった」「ずっと探していました」とおっしゃっていただくことが多くて、15年前と何も変わっていないことに驚きました。
15年前の私は、パソコンを開いてどこかにスモッキング教室はないかと探したり、刺しゅう教室と名のつくところに問い合わせたり、海外のスモッキングの本を買ったり、中古本を探し回ったりそていました。
スモッキングは、私が始めたころよりも確実に流行っています。
市販のお洋服は大人気ですし、インスタグラムの#の数も昔は1週間でもたいして増えなかったのに、今はすごい数になっています。
習いたい方も確実に多くなっているのに教えてくれるところが少ないのは昔のままですよね。
オンラインレッスンも少しずつできてはきていますが、まだまだ十分とはいえません。
かつての私のように教室難民にならないように、スモッキングをしたいと思ったときにすぐにしっかりトータルに学べる機会を作りたい!そんな思いで講座を作ることにしました。
ぜひ、基礎の基礎からお洋服作りまで、一緒に楽しく学んでいただきたいと思います。